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日本における「老人と情報革命」

今日、久しぶりに実家に行った。ガラケーだった携帯電話を7月に楽天回線を契約してスマホデビューした母親はその後、色々と試してみたがわからない事がたまってきたのでどうしてもきて欲しい、という事だったので、その対応のための帰省という感じである。前回7月の時も母親の携帯契約に付き添い&みっちりレクチャー(いくら時間があっても足りないが)をした続きということもある。ちなみに父親は完全に傍観者で携帯電話を持つ気はさらさらないようだ。

他の同年齢の状況について詳しくは知らないのだが、もう70代中盤の母親ではあるが、楽天モバイルと悪戦苦闘しながらも、動画を撮ったり、それをLINEで送付したりなかなか頑張っていると思う。

前回もそうだったが今日も4時間弱、ほぼ休みなく色々とやり方を教えながら、(と言いつつ、自分の端末とは異なるのでこちらも全てアドリブで)ああでもないこうでもない、と疑問点に答えながら教えて行った。年齢の割になかなか頑張っていると思う。

しかし、ここ20年、特に最近5年から10年は情報化社会(情報革命)の変化のスピードが激しく、自分もこの分野はどちらかといえば得意な方だと思っていたがなかなかついて行くのが大変な状況が続いている。

人間活動において「情報」というものは、その活動全般を支えるものだと思うが基本的にその情報の質と総量が多ければ多いほど、より良い結果(アウトプット)になるとと考えられる。

その情報の質や総量というのは「これまでに蓄積しそれを自由に取り出せる量(脳内にある情報を取り出して自由に使える量)+その時々にアクセスできる量(脳外にある情報)」の合計値だと思うが、例えば100年前であれば、脳内にある情報の比重が大きく、よって年齢を重ねた蓄積がものをいう「年の功」というのがあったが、最近は脳外にある情報の比重が急激に大きくなってきており、よって、この脳外の情報にいかに効率良くアクセスできるか、というのがますます重要になっている。

脳外の情報へのアクセスはどんどん革新的なものや方法が現れ、この新しいものを取り入れることはやはりどうしても年齢と重ねるにつれて厳しくなってくるのが一般的で、高齢者ほど、どうしても情報弱者の傾向になってしまう。

情報があれば全てうまく行く、というわけではもちろんない。情報を得て、それを自分の条件に合うように加工し、情報が足りなければ想像して補う。さらにはじっくり思考して閃きやセレンディピティなどを待つことが必要になる。とはいえ、情報へのアクセスについては、その例えば100年前と比較して比べ物にならないほど重要度が増し、その質・両共に全体として大きく底上げされているのは事実だと思う。一方、年齢などによる情報格差をどのように縮めるかについては、高齢化社会を迎えている日本において重要になるのではないかと思い、「老人と情報革命」というタイトルにしてみた。

誰しも歳を重ね、老人になり、死んでいく。
歳を重ねても楽しく生きていきたい。楽しく生きる要素の中に情報へのアクセシビリティもあると思う。